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高橋結子(Takahashi,Yuko)パーカッション
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1973年3月2日、兵庫県加古川市出身、魚座/A型。特技/大量の機材を車に美しく積める。
1973年3月2日、兵庫県加古川市にて生誕。きょうだいは年子の姉が一人。現在は小さい妹が二人増えて四姉妹。一番下の妹と姉の息子が同い年というサザエさん的一家。因に姉の旦那さまはヒカシューの巻上公一氏。 3歳頃からか、ヤマハ子供音楽教室的なところに通う。今で言う「ドレミファソ・ラファミ・レ・ド」というやつだと思う。エレクトーン弾いたり、カスタネット叩いたりとか。父の仕事の関係で3歳の終わり頃シンガポールに移り住む。ここでもエレクトーンを習う。エレクトーン教室があった「ヤオハン」ではいつもシャカタクの「Night Birds」が流れていた。生涯初めての発表会で演奏した曲は「日曜はダメよ」。家にあった4本のカセットテープ、沢田研二、ハイファイセット、「さだまさしベスト20」「研ナオコ・中島みゆきを歌う」をくり返し聞いていた。初めて見たコンサートもシンガポール在住時、親にくっついて行ったジュリーのコンサート。空を飛んでいた。小学校三年生の初め頃に帰国。友だちに連れられて見に行った「TAN TAN たぬき」でチェッカーズにはまる。初めて自分でレコードを買う。地味な子供だったが急に部屋にポスターを貼ったり人並みに流行りの歌謡曲を聞いたりし始める。ラジオ番組「藤井郁弥のハートはジュークボックス」を毎週かかさず録音、the Beatlesやオールディーズの曲を弾き語りでカバーする生歌コーナーがあり、その原曲をレンタルレコード屋に探しに行く、というような日々。ほどなく時代はバンドブームに、人並みに流行りのバンドを追っかけたりする。高校一年で初めてのバンドを組む。最初はボーカル担当だったが、性格的にフロントに立つことに向いていないことに一年かけて気づき、次に組んだバンドで何となくドラムを始める。16年間続けたエレクトーンは、テクノロジーの進化に着いて行けず16歳でやめる。電子楽器へのトラウマは今でも続く。高校時代は数々のバンドでドラムを叩くがもっぱら流行りの邦楽のコピー。ラジオでかかったLed Zeppelinの「Black Dog」に衝撃を受けるも洋楽を聴く友人は皆無だったため一人の楽しみで終わる。最終的に落ち着いたTHE BOOMのコピーバンドでは地元のコンテストで準優勝するなどそれなりの成果をあげる。大学入学とともに上京、軽音サークルでドラムを叩くお気楽な日々。洋邦新旧問わず何でもやった。聴く方は70年代のロック中心だったが、ブルースロックを掘り下げているうちに遡りすぎて戦前ブルースしか聴かない時期もあった。たまたま友人が在籍していたサルサ研究会に誘われ、ラテンは全く知らなかったが興味本位でやってみた。この時言われた「しょせんロックのタテノリしか知らない奴は・・・」という言葉もいまだにトラウマ。担当はティンバレスだったが、遊びでコンガやボンゴの叩き方も教わった。サルサバンドは半年で終わった。色々あって大学にダラダラと7年くらい居るうちに、軽音サークルで活動していたGOMES THE HITMANにひょんなことから参加するようになる。与えられた職務はタンバリンだったが、それだけは退屈なので勝手にコンガやボンゴをサルサ研究会から借りてきて並べたりしていた。そうこうするうちにメジャーデビューの話が浮上。面白そうなので乗かってみることにする。しかし当時持っていた自分の楽器といえば、ビールの空き缶に米を入れたシェーカーと600円くらいのトライアングルと拾ったタンバリンぐらいだった。てきとうにもほどがある。大学のサークル関係者からは「なんでアンタがパーカッション?」と思われていたにちがいない。1999年BMGからメジャーデビュー。 タマコウォルズのメンバーの中で最初に出会ったのはドラムの中原女史だった。彼女が在籍していたサイクルズのラジオ番組に呼ばれて行った。大して話は盛り上がらなかった。いつだったか渋谷の屋根裏で対バンした時にも話は盛り上がらなかった。が、サイクルズの演奏中、楽屋で出番を待ちながら彼女のドラムを聴いて妙に胸が騒いだことを明瞭に覚えている。 次に出会ったのは、西池、河野の両氏。当時の彼らのバンド、セロファンと初めて対バンした時は衝撃だった。嫉妬するくらいカッコよかった。その後2002年頃から、セロファンにパーカッションでサポート参加するようになった。たくさん一緒にライブをやってアルバムレコーディングにも参加した。濃厚な日々だった。 そしてそのセロファンでカーネーションのイベントに出演したのが、当時カーネーションのメンバーであった鳥羽さんとの出会いだ。加藤千晶さんをはじめ、たくさんのアーティストの現場に誘ってもらってサポートの幅を広げてもらった。いろんなことを教わった。 鍵盤のトミーを初めて見た時、彼はドラムを叩いていた。噂には聞いていたが当時20代前半という年齢に全く見合わない老成ぶりにおののいた。こんな若い才能の芽は早いうちに摘んでおかねばならん!と思ったものの、sugarbeansに誘われたのでやめにした。 自分のことに話を戻せば、2001年にGOMES THE HITMANのドラマーが脱退、パーカッションだけでなくドラムも担当するようになる。ちょうどその頃からバンドの外に出て個人でサポートの仕事をするようになった。これまで関わったアーティストは数知れず、メンバーとして参加しているバンドもタマコウォルズやGOMES THE HITMAN以外にも多数あり、語り尽くせぬのでその辺のことはわたくしのホームページ「kets-tronet」でもご覧くださいませ。 |
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